昭和43年 10月18日月次祭 


 御祈念にかからせて頂く前に、お祭りの始まる前でございます。吉井の熊谷さんがお届けをされました。今日、だいたいあの、以前、胸の病気、胸が悪かった。それでなんか町のほうから、まだどうも、あなたは体の上にまだ不審な点、おかしいところがあるからもう一辺レントゲンにかかって下さいという通知が、まあ、あの、ございましたそうです。で、病院においでられた。
 ほらやっぱその、そういう人がたくさん来ておられた。みんなが青い顔をして、はー、こりゃ、まだ悪いと言われたならどうすっじゃろうか、といったような顔を皆しておられたかれど、 先生私はおかげを頂いてから、たとえお医者さんがどう言われてもです、もう心の中にどういったことがあっても、おかげ頂けばいいのだから、ね、おかげ頂かなければできんのだから、おかげを頂けばいい、もう心の中にさらさら不安も影もございませんでした、というお届けがあったんですけれども、「熊谷さん、あの信心はね、それを頂いていくことですもんね」というて話したことでした。
 ね、どういうことを例えば言われようが、どういう事が起きてこようが、そこからおかげを頂いていけれるという確信だ、ね。
 私はあの、金光様の御信心をいただいてですね、そこんところを育てて頂くところの信心、それが段々自分ながらも有難いまでに育っていきよる、ということの有難さが信心であり、修行になってこなければ、私は意味が無いと思う。
 ね、今日もちょうど私がお昼下がろうとしておりましたら、福岡の麻生さんが親子、五人連れで参ってまいりました。家内の母親とですね、そして今度息子のおかげを頂きましたので、日晴れで御礼参拝ができたんです。それで、お届けをさせて頂いて、ご神前で御祈念をさせて頂いてから、ま、声聞かせて頂いてから、お話を聞いてもらったんですけども、ご神前でそのことをお礼申させてもらいよりましたらね、「花を願わず、実を願え」、と頂きました。花を願わず、実を願え、いわゆる実りを願えという、みは実という字、ね、お互いがね、その花というのはいわゆるその、目先のことだとこう思うんですね、早く花が咲けばいい、と、まあ、花が咲くおかげを頂いても、それがあだ花に終ったら、なんにもなりません。そういう信心を頂いておる人達がもうどのくらい沢山おるかわかりません。
 長年信心させて頂いておって、なるほど一時はそれこそ、花の咲くような、場合によっては枯れ木に花の咲くようなおかげも頂いたけれども、それがひとっつも実りになっていない。
 それは花ばかりを追い、追求するからであります。
 ね、だから花を願わずね、実を願え、ね、私はほんとにここんところをですね、あの頂いていくおかげを頂かなければだめだと。
 ま、ある方が入院しております、非常に熱心な信心を頂いておりますし、また随分と心の中にも、信心がどういうものかと、または、あー神様もまあ、信じて疑わないだけのものは、持っとりますけども、この人はその、いうならばわがよか時だけの信心といったような感じでした。お日参りさしていただいたとき、んまねー、お日参りしたっちゃなーんにならん、も、ちゃんと教えを守ってさえ行けば、この神様はおかげ頂く神様、というてその、いうならば、お日参りをする人達を軽視するような向きがあった。
 ところが今度は、まあ、得体の知れない大変な病気になって、日頃信心が、持っておるのでございますから、いよいよ信心の炎が、あ、そのいよいよもう神様が、または、神様かでは、・・・?がさじをなげられんばかりのところを何回も通らせていただいた。ね、そしてやっぱり、日頃念じておる、いただいておる神様のほうにおすがりしなければおられない、というのがまあ、その方のまあ、心境でございましょうが、この頃はしげしげと代人を参らせます。
 ね、そして手紙、今日なんかの手紙を見ておりますと、とにかく先生淋しゅうて、淋しゅうてなりませんとこう言う。こうして参っていただくとです、心の中になんとはなしに賑やかなおかげを頂きます。淋しゅうて、淋しゅうてこたえん、私はそのお届けがありましてから、十分もしないうちに,その二番目の息子さんが養子に行っとりますのが、新婚旅行から帰ってきたというてお礼にでて来ました。そして、家の母ばっかりは不思議な母でございますばい、長男,兄の結婚式の時にも、あの、・・?から落ちて入院いたしました。で,今度私共の結婚にも,もう前からそれが決まって、それを変更するわけにはいかん、今度もやはり式にもでられなかった、私共のこうした晴れ姿をみることもできなかった、不思議なこっちゃあります、と言うて後に来てから言うんですよね。
 ほんとにあの神様のご期待がある人だと私は思うですね。それは色々な意味合いにおいて、はっきりその良い事にも頂く変わりに、そういうお気付けの上にもやっぱりはっきりとしたものを頂く。
 これは何か分からなければならないということになるんでしょう。
 ちようど一時間ばっかり前に、北野の秋山さんが手紙を参拝者にことづけていました。もうこの人の手紙を見ていますとですね、もう寝ながらこういう喜びがいただけるか、ね、寝ながらこういう修行がでけるか、寝ながらこういう万事万端にご都合お繰り合わせが頂けるだろうか、というようなおかげを頂いています。もう、それこそ毎日日参させて頂いておった時よりも、その時のありがたさが一辺にこみ上げて、このたびの大祭の、あの、記念のあれを読まして頂いて、・・・?五十日間、それこそ汗みずくになって、御祈念をさせて頂いたあとに、親先生から頂いた五分ばっかりの、あの御教えを戸場に書かれる、廊下に沢山並んで、それを全部書き写していたときのことが、まざまざと心に描かれて、その時の感激をまた味あわせていただいております。もうそれは先生、それはもうほんとに、あの、まあ、汚い話でございますけれども、ね、ずーと休み下に休んでいますから、御不浄なんかがどうにも出来ない、もうこれはもう、不思議で不思議でたまりませせんち、ほんとこう、もようすと、くると気兼ねもなーも人が尋ねてくる、もこれには驚いてしまいますというて、その寝ながらおかげを頂いているそのことを、お礼お届けしております。
 ね、だから寝ながら、やっぱ修行さして頂きよります。もう思うと、とにかく皆さんが、大祭前は、大祭前のご修行があるだろうと思うたら、じっとしてはおられん、寝ながらでも、ね、だからずーっと寝てるんですから、もう別に痛い痒いがあるわけではないのですから、おかげでこの十六日の御大祭の日にギブスが取れた、ね、それでもやはり、こうじっと寝ておらなければならない、ねですからいうならば誰もいない、一人で留守番しておるとき、テレビなっと見らなければ、その退屈だろうけどもです、そのテレビも休ませて頂いてこの方、見らないことを修行にさして頂いておかげ頂いております、とこういう。
 ね、そのね、あの受け心というか、受ける心という日頃鍛えられておって、それが出来る。
 どうやら困ったことやら起きてまいりますと、子供達に私がお話いたします、お話いたしますと、はあ、お母さんそうじやったねと言うてその、安心のおかげを頂きます。
 先日もあの娘むこが、やってまいりましてから、ね、ある困った難儀な問題を、こんな訳でから、合楽にお届けに行きよると、けどもそれはひさしさん、あんた考えてみてごらん、あんた、お願い、それはお礼ばい、そりゃあんたお礼申し上げなんじゃんね、というてその、こんこんと、その寝ながら感じておることを、話させて頂いたら、ほんなことお母さん、これは、お礼申し上げなんことじゃったですね、と言うて、そのお願いが、お礼に変わってくるようなおかげを子供が頂いております、とこういう。
 そういう、もう生き生きとしたお礼の手紙が来ておりましたから、私がそれをその方に、一筆書いてやって、その手紙を同封して、これを見て元気を出しなさい、ね、というて、まあ、こと付けさせていただいたんでございますけれどもね。
 ただ、なるほどおかげさえ頂けばよいという信心では、ね、もう絶対、いざという時が、役に立ちませんですね。ね、もうやはり淋しい心になっているです。、心が真っ暗になっておるです、ね。
 いわゆる花を求める、だから信心はせんでん、なるほど花は咲いてる、ような感じですけども、その花が実っていきよらん証拠に肝心要の、自分の長男が、または二番目の息子が、いよいよほんとに、後家さんですから、その親が父親代わり、母親代わりしていかなければならないほどしの立場にある人が、息子達の結婚式にも、いつの場合にもね、かたっておられないということは、はあ、やはり考えなければあおられないこと、ね、それにはこの人は中々筋がいい信心、頭も良い、勉強もする、修行精神も大体ある、けどもそげん、あ―たどん、毎日参らんでんよい、という考え方なんです。ね、ですからね、神様が願っておられるのはです、そういうおかげの信心、花の信心から、ね、実のあるおかげを頂いてくれよという、神様の願いを、私はここに、その方に聞かなければならない。
 そんなふうに私は今日、思わせて頂いた。ね、ちょうど麻生さん達に対する御理解の までした。その後に、んー、せんぷりがね、いっぱいこの密生しておるところを頂いた、次にはそのせんぷりをこのくらいばっかりに、手どってから、陰干しに、もう、あの飲める位に、陰干ししてあるところを頂いた、ね、だから二人の子供がおる、ですから二人の子ども達のために、親がどういう信心をさせて頂かなければならないか、花を願うな、実を願わせてもらう信心ていうのは、どういう信心なのか、この子供たんために、嫁が輝子さんと言いますから、輝子さん信心せにゃいかんよ、私はこのせんぷりのはえておる信心と干してある、もう使えるようなのを頂いたという事は、まあ、生えておるのが、まぁ輝子さんあなたじゃろう、こちらのほうの陰干ししてあって、もういまにも飲めれるというのが麻生さんじゃろう、お父さんじゃろう、ね、だから、たとえていうならばです、どういう苦い思いをするようなことがあってもね、決して暗い顔どんしちゃならん、腹かいちゃならん、というおかげを頂かにゃいけんよ、けれどの輝子さん、あんたはまだ時々くらい腹立たっちゃよか、悔やんだっちゃよか、まだ生えとる、いまだ、まーだ役にたっとらん、けどもそのことは知っておかなければいけない。腹を立ててもよか、けれども、さださん、あ、じゃやない、麻生さん、金輪際あなたは、そげなことがあっちゃならん、ね。
 商売に出てからどういう不愉快な思いをするようなことがあるかもしれんけれども、はぁ今こそせんぷリを頂きよる思いなさい。うちで家内が腹かきよるでも、ね、は、家内がなにか都合のクチャクチャすることがあるじゃろう、と思って祈ってやりなさい。
 家内が麻生さんば見てから、にこっと笑いよるです、私はまだ腹かいたっちゃよかってすよ、あなたは腹かいてもできんですよというような顔でから、見よります。だけどそれなんです。
 信心させていただく者は、それなん、だからにゃいかん。ね、そうしてゆくゆくは、ね、ほんとに腹、いわば苦い思いをする時に、いまこそそせんぷりをいただかして頂きよる、いまこそ胃腸が強うなっていきよるというお礼を申し上げられるような信心を頂いていかなければ、私は実りにならない。
 私は今日、久しぶりで夕方、・・・?みんな先生方が、久留米教会から、今日、研集会から帰ってまいりました。それで、あちらで、お話を、それぞれのお話を聞かせて頂きながら、洋間でお話頂いた。立とうと思ったら、どっこいちょっとおかしいな、と。いわゆる何年か前,この私が足がたちませんでした時の、前兆のようなものを感じた。
 手も何ともなしに、こうこうするけれども、思わしく動かない、足もどうもたった、あのソファーから立とうに捉まえては立てない感じであった。あら,と思うたその次の瞬間にです、本当にもう自分でばし立ちよるごと、と私は思わせていただいた。
 ね、皆さん、本当にね、自分で動いておるとでも思うてなりませんです。
 ね、自分で立ちよる、自分で歩きよるとも思うちゃならんです。こういうことがね、当たり前の、のうなってしまう。その、この信心をさせてもらうのはね、もうそんくらいなことは当たり前んなったら、その人の信心に生き生きしたものがなくしてしまうんです。
 とても三度三度のお食事が頂きよるてんなんてん、もう、こげん不思議なことはなかち、実をいうと。これをお許し頂いて、ね、どんなに億万の金を積んでおってもですよ、一杯のご飯が喉を越さない人すらがあるじゃないですか。
 ちょうど先ほど久保山さんが、あのお届けをしておられましたが、私は二、三日善導寺のあそこの前を、通らせて頂くときに、茂さんこそ、その、いまお届けのあった隣の大将とが話をよったです、なんか、家、さかいんとこんにきで、それからそんとき見とったんです。
 したら今日そのお母さんが参ってきてから、その方がちゅうぶがでられました。まーだ若い、茂さん達、まあ、私たちくらいじゃろうかしらん、ね、その方が。ちゅうぶがでられた。まだ若くてですね、もう早速、もちろん病院に入院されたということでございますけれど、その方のお願いがあったんです。
 ね、私達でもいつ、こりがかなわんごつなるやら、歩かれんごとつなるやら、どんなに美味しい物や目の前にあっても、それが喉を越さないようになるやらわからんのですよ。
 ですからそれが美味しく頂けれるとか、ね、歩けるとか、動くとか、見えるとか、目が覚めるとか、もう実にそれはもう有り難いことなんですからですね、それをありがたいと思わせていただけれる信心を頂きたい、ね、それを心の底からね、有り難いと思わせて頂けれる、分からせていただけるということ、そこにね、ありがたいなー、歩かせて頂きながら、ありがたいなー、目が覚めさせて頂いて、おかげで今朝も目が覚めましたと、お礼がいえれる心、そういう心におかげがあるんです。
 ね、手が動きよるということ、ね、このシャク一本が、あーた、これがちゅうぶになったら、・・?かんとですから、これを、こうて握れる、握りしめられるということがですね、ありがたいんです、だから、有り難いと分かるのじゃない、ありがたいと分かった心の中から歓喜が湧き上がってくる、そういう信心を頂きたい。
 ね、当たり前じゃない、ただ事じゃない、ね、スイッチを押しやぱぱっと電気が点る、ね、ちょっと、こうひねれば、水がジャーっと出る、もう当たり前の事のようですけども、とてもとても不思議不思議でたまらんと、それを感じられるような信心を頂きたい、ね。
 明るくなったら、有難い、ね、人間というものは、真っ暗い中に光を頂くと、あーおかげでとこう言うけれど、ね、それがこうやっていつも明るい中におりますと、その明るいことの有難さが分からない、そこを信心をさせて頂くことによってです、分からせて、当たり前えのことを、当たり前ではない、このような広大なおかげの中にある私ということを、分からしていただく信心、ね。
 そういう信心、そういう信心がです、なされていきよりませんとです、ね、そのいざという時に、しおれる。
 ね、今朝からのご理解の中に、ね、金の杖をつけば曲がる、木や竹は折れる、神を杖につけば楽じゃ、と。ね、だから私共が信心を頂いておるというておってもです、神様を杖についておるようであってもです、ね、楽でない、心配である、とするならばです、これはまだほんとに神様を杖にはついていてはおらんとわからにゃいけん。
 ね、やはり金を杖についちょる、まーだ木や竹をついておる。ね、そのことの私は、あらたな解釈というかね、今朝の御理解、それを私はこういう例で聞いて頂いた。
 先日、御大祭の御直会も終って、もう先生方皆さん、帰えられる時であった。ね、で、甘木の平田さん達も、そこから帰られる、みんなを送り出して、秋永先生が前にもいうておりましたが、あちらの六千坪からある、その邸宅だそうです。ね、あの屋敷内にです。もうそれこそ、大きな木が沢山植えられてある、勿論よそから持ってきて植えたんでしょう。沢山植えてある、それ見てきておるですから、そのあれをいっちょ、平田さんに言うちから、もろちくるちゅう、・・・・・?きれいに植えよう、と言うことを言うておりました。
 けんそれを先生がそこで言っておるわけなんですね。平田さんいっちょ、それをそういう話がでとったんでしょうね、あの木を一本ね、それを記念に献納してください、ね。
 たいがいな者ならですね、こういう合楽との関係も段々おかげ頂いておることございますから、はあ、よかとこじゃなか、一本でん二本でんよか、取り来なさい、というとこでしょうけども、そこが私平田さんの素晴らしいとこだと思ったんです。ね、そうしたら平田さん、どういう事を言うかと思ったら「秋永さん、ち、徳で勝負しよう」、ち、徳で勝負しょう、と言われた。「私げんとは、みんな徳によって集まって来とるとよ。だから合楽に私げんとを受けきるなら、一つ受けてみなさい、受けきるなら上げますよ」と言う意味なんです。
 ね、同時に上げましょうというて、私のものはこれからさきでもなかと自分は思うとる、私のもんじゃないという考え方なんです。秋永さん徳で勝負しよう、ち言われる、。
 ね、私横で聞きよってから、一言も無い事言われるなー、と私は思うた。あちらの自家用車が迎えに来た。迎えに来たけれども、もうあの、こちらに入ってこん、して向うに歩いて行かれる。私げん息子はあげんして迎えにくるばってん、絶対境内の中に入っちゃこん、ね、神様の境内にから自動車に乗りつけるようなことじゃでけんと思うとるから、公用の限りでない、私用の時には必ず、いわゆる道まで出てから、私は乗らしてもらう、自分がたの車だと思うとらんから、神様のここは特別の、いわば神域と思うておるから、ね、これが良い、悪いは別として、そういう一つの筋金がとおっとる。
 ね、甘木の初代なんかは、あの満州に視察された時なんかは、もうあの極寒の満州でですね、教内、あ、教会境内、外で必ずオーバーを取られたそうです。襟巻きとオーバーを。そらとても満州の寒さというのはね、そりゃもう、そりゃもう、じょうけに及ばんとですよ。他のはとらないけれど、甘木の親先生だけは、襟巻もとられ、オーバーも取られたということですよ。ね、そういう信心がああして残っていることは、尊いことだと私は思うですね。
 ほいであちらまで歩かれるもんですから、私どんも一緒にあすこまで送って行こう、御直会を頂きよったけん、樋口さんがこういうことを言っておる、いっちょ会長んところに、あの二番目の息子、二十七になる、先生あんたがたに、信者ん中に嫁ごになるとはおらんじゃやろうか、ち。は、おりますくさい、と私は言う、言いよった。ね、ところがこんどはその、それとおんなしことを平田さんが私にそのいくいく、話されるわけなんです。 ね、「先生、こん私げん息子が、こりゃ長男、二番目んとが、二十七になる、いっちょあんたげあたりに、嫁ごになる人はおらんじゃろうか、」ちいわれるわけなんです。
 ほいで私は申しました。「平田さん、徳で勝負しましょう」したら、頭かかかえて自動車に乗られました。
 実際そうでしょうもん、ね、金の杖をつけば曲がる、木や竹は折れる。ね、金の杖をつけば曲がる、いくらどんなに金があっても、その金にひとっつも頼っちゃおらんということ。同時にそれを私し、していないということ。
 ふなら、物だって、金だって、人だって、同じでしょう、私どんは長女がおり、長男がおるばってん、まっだ、だーれんうちん家内、娘ばどっか世話してください、頼んで回ったことが無い、はあん、見合い写真ばこう、作ってから、ずらーと配ってですね、どうでんこうでん頼もうじゃん、そりけんもう、その、とんでもないところからその言うてくるわけですたいね、そりけん、まるっきりほんなこて、あんなことじゃクソつかみじゃと私は思うです。 
 人間心で、あんた、こうやって、ね、しとる、そりけん頼まれとるからみんな、やっぱこげんとがおりますばい、こげんとがおりますばい、ち言うて来る。ね、これは私が木や竹を杖についていない証拠です。
 家で七人の子供がおりますけれもです、ね、そげなことが、してはならんとこう思う。と言うてからなら、こげん人がありますけん、どうでしょうかと、それはいらんちゅうことはなか、ね、そげん時にはね、ひとつどうぞよろしくお願いしときます、とこう言う。 ね、金の杖をつけば曲がると、木や竹は折れるということはね、そういうことなんです。
 ね、金、金というて金にばっかり頼ろうとする。ね、例えば、なら総代さん達がですよ、私が、今日はなに、ねえごつじゃけんで、いいちょ行って下さい、お願いしますよ、とまあ、頼ったとしましょうか、ハイ、ちゅうち言うこと聞きゃ、よかばってん、はあ、ちょいとあなた、行こうと思うて、行かじゃった、私は・・・?ならん。
 そうでしょうが、そうですよ、ね、ですから、ここへ来て、私は御用頂きますというなら、こうしてよか、そうです。金でも物でもおんなしことです。ね、息子ん嫁ごが、ここに来たいと言い、ね、こん人があるというなら、お願いしますというだけのこと。
 ね、娘達が嫁入るでもそうです。ね、決して私は、見合い写真のごとあっとば、こう配って歩くとは思わない。
 ね、けどそこんところを、私のその一言でです、分かられたじゃなかろうかと、私は思うた。
 はあ、金の、金を杖をついとらじゃばってん、木や竹は、とこはね、まあだ、樋口さんにもかなわじゃったに違いない、最近よっぽどその急を要するごたあるふうじゃん、ね、樋口さんもしきりに言いよったもん、ところがそのお父さんからも、期せずして聞いたんです。ね、だからあっちこっちん教会に行っちゃ、・・・・?違いなかでしょう。
 ね、そして頼みござりに違いないなかです。
 ね、ですからね、私はもう、信心させて頂いて少しおかげをいただいてくると、金がやはりでけ、いわゆる花が咲くわけですよ。
 そすとその花にちゃんと腰掛けてしもうてから、ね、信心の方をおろそかするから、それがあだ花に終ってしもうて、子にも孫にも伝わらないんといった欠陥が、よし伝わってもそのために難儀しなければならない事になる。
 ね、皆さんおかげ頂きましてですね、どうでも私は、私の心の中にね、安心のおかげの頂けれる信心を頂きたい。
 先ほどから私が申しましたその方がね、あの入院しております、お母さんが参って来る、ね、そすとそのお母さんには、その内緒らしいんです。そりこそもう思い切ったお金を状袋に入れて、ほかんもんのごとしてから、あのこれはだれだれ、娘が嘘つきましたけんち、持ってくるけん開けてみたらお金が入っておる。ところがね、参ってもろうて、お供えして頂くとです、淋しいのがにぎやこうなり、ね、不安なものが安心のおかげになってくるとこういうわけなんです。
 こりゃしかし、本当です、ね、ですからね、そういう例えばおかげではなくって、もう、ありがとうしてありがとうして、たとえばそれがでけれるおかげを頂いたのが、おかげなんです。
 ね、あの古谷さんあたりが精進しよるけれども、よしゆき先生が若い時に病気をされた、もうそれこそ九死に一生という病気であった。そん時に、もういよいよという時にですね、自分のもっておる全ぶの物を金に替えられた。自分方にある預金の全部をここの親教会とご本部にお供えされた。それを境におかげをいただかれたというお話を何回も聞いたことがありますが、ね、だからそういうようなおかげではなくてです、ね、いわばお金が頂けたたと、花が咲いたと、その花に腰掛ずにです、それからいよいよ実のある信心を求めての信心、あだ花に終ってはならない信心、ね、その信心を頂かして頂くためにです、先ほど、今日、宮崎さんと秋永先生が御祈念、お祭り前にお話なさっておられたように、今日の少年少女育成のことについてのお話があっとりましたが、ね、ほんとにやはり、うちのお父さんには、うちのお母さんには付いて行かなければおられないということ、それがそれまえ勉強がおろそかになってはいけん、教会参りをご無礼しょう、とたとえば思ったり言うたりしたようなことではおかげになるはずがないですよ、ね。
 今日はその母と、親と子の関係についての座談会の中に、佐田さんが選ばれてそこ行った。そして自分ところの、いわば子供達がついてくるとこと、子供達なりの修行させて頂きよること、どんな場合でも神様一心におすがるすること、そしてこのようなあざやかなおかげを受けておるということ、合楽におかげを頂いてこのように変わっていくということ、この頃から学校の先生が、とにかくあの父兄会のときに、とにかく、典子さんが変わられるのに驚いてしもうて、どういうような秘訣がありますかと尋ねられた、ね。
 そういうようなその話をさして頂いた。みんなの共感を呼んだというのです。
 ね、だからまだ私の者は、まだ中学校にも行かないくらいですから、これから先どうなるか分からんけれども、分からんなりにもそのような信心をさして頂いておるということなんです。
 ね、この頃から、大変具合が悪かった。そでお礼参拝にまだ、そのへとへとしておるにですね、まだ、少学五年生でしょうか、その久留米から合楽まで自転車でお礼参拝するという、ね、そういう時に、私の口からですね、はあ、そりゃおかげばい、ふなら電話ですぐお取次ぎ頂くとおかげ頂いて、と言うた後に、まあ、ようもあげなことを言えたと思うたと佐田さんが言うておられます。
 それがなら、自分の心の中に燃えておらなければですね、もうそりゃバスで参っておきゃよかが、と必ず言うです。
 ね、おかげで、おかげ頂いた、帰ってきょったげなが、また次の、三年生です、富美江さんちゅう子が、そするとあの、その歩いて帰ってよる、善導寺から、姉さんが修行するなら私も負けちゃならん、というのが富美江さんの気持ちじゃったろうとこう思うんですけど、子供ながらにもね、心を神様に向けてして修行でもさして頂こうと言う心なんです。 ね、そういうものが育っていきよるということ、私共でも思うてみると、ほんとに子供ながら修行させて頂きよったと思うんです。
 ね、それがね、それがどれくらいにその人の一生に上に、あの、それが基礎になり信心の、本当の信心が打ち立てられることのお役に立つかということを思うときにですね、こりゃ、育成、子供達の信心の育つということにですね、これは本気でもちょっと関心をお互いが持たなければいけないなということを思います。
 どんなに頭が良かって大学を卒業したっちゃ、あんた肺病どんなったらどうする、そんためかえって不良になったらどうするか、ね、そこんところを一つ私は思わせて頂いてです、ね、そういう目先の学校の出来るとか出来ないとかという、そういうことじゃなくって、もいっちょ向うにある実を、こう願わしてもらう信心にならにゃいかん。ね、
 信心させて頂くということは、ね、どういうことを願いとしての信心させていただくか、また目的でなからねばならんかということをです、日々が喜びと安心のいけれるおかげを頂くために、ね、もう死ぬか生きるかというときにです、さあ、沢山のたとえば、ものをお供えしてからでも安心を頂かなければならない、のではなくって、常日頃に健康な時に、それが当たり前のことじゃない、ね、これは普通の者は当たり前と思うとっても、当たり前と思うたら喜びは湧かん、けどもそれをとてもただ事じゃない、当たり前の事じゃない、とそれを不思議なことまでにそれを高めていかなければいけない。その事実を、ね、ほんとにその真実というものをです、ね、ほんとにこう動きよることがです、ふしぎなことじゃなあー、そこに喜びが湧く信心、ね、そういう信心を身に付けていくためにです、ね、私は本気で信心修行させて頂いて、いわゆる金をつかんでも済む、木や竹をつかんで済む、本気で神を杖につけば楽じゃというおかげの頂ける信心を身につけていきたいとこう思います。
 ね、たとえこりゃ熊谷さん、あーたんとは、だいぶこりゃ進んどりますばい、とよし言われてもです、ね、おかげ頂きゃいいのだから、といつも心に安心を持っておれれる信心、ね、はー、こりゃほんに、悪かったらじゃらどうするだろうかと、たとえそういうときにですね、不安の起るような信心ではつまらんですもん、ね、ならそういう信心がどういうようなとこるから、どういう信心から生まれてくるかということをです、ここでいつも聞せて頂いておるわけなんですけれど、ね。
 信心がこれくらいでよいと、もう神様がご承知だから、というところには信心の向上も、いうならば、私が言うお徳は受けられません。例えて言うと、今日は北野の御天満宮様です。・・・?おくり、もう大変大きなお祭りですから、北野の方達は、みんなお休み致します。金光様の御参りもお休みします。それはもうちゃんともうお届けしてあるけん、先生も知っちゃる、神様も知っちゃるけんと思うとる。ね、けれどもですね、本当にお徳を頂く、どげな事があったちゃとか、ね、ほうてからでんとかいうものがあらねばね、どげんおくんちじゃったちゃ、ちょいとお参りせなければおられんのが信心、ね、今日教習会にみんなが行った。ちょうど帰ってきたころに、長瀬さんが見えた、えらいはよ見えたですね、先生方もう帰って見えたろうと思うてからというわけなんです、そんならもうお月次祭このままおんなさたちゃよかろうもん、いえやっぱちょっと、帰らせて頂いて、出直して来ますと、ね、今晩会うんじゃいいんですけれども、それなんです、信心とは。
 ね、そこんところが、そうせにゃならんじゃなくって、そうしなければおられないという信心にです、ね、花ではない、いよいよ実が実としてのおかげに成っていくところのおかげを受けれれると思うのでございます。どうぞ        大坪かよこ